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NAKAMURAが想う「人」のこと、「モノ」のこと、「写真」のことを、ぬらりくらりと綴っていこうと思います。
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土門拳と植田正治。
日程の都合で土門拳記念館の後に植田正治美術館に行きましたが、順番はこれで良かった。いや、これが良かった。 「リアリズム写真」を提唱した土門拳と、「演出写真」を撮り続けた植田正治。 まったく正反対の写真観で撮られた写真。 だけど、すべてが正反対ではないと思う。 「自分」が「相手」にカメラを向ける。 そこには、ただ撮影というカタチが存在するだけじゃない。 「自分」を受け止めてもらい、「相手」を受け入れる。 その間に、カメラっていう道具があるだけ。 カメラは、人と人(モノ)とを結ぶコミュニケーションツールであるというだけ。 撮影とは、「自分」と「相手」の会話のようなもので、より相手を知ろうとすることで、お互いを認め合い、キズナを深めていく。そのキズナが「写真」として表現される。 土門拳も植田正治も、被写体への様々な想いを、自分の人間性から生み出した表現で撮影している。 自分は写真にどう向き合っていくのだろう。 自分なりの表現とか、テクニックとかも大切だろうけど、まずは「相手」にどう向き合うかからはじめよう。 自分と相手との出会いを大切に、その時間を大切にシャッターの重みを感じていきたい。 ありふれた言葉だけど、「一期一会」ってことなんだろうな。 PR 鳥取の植田正治美術館に向かう。 「演出写真」 「生涯アマチュア」 演出を施している彼の写真が不自然に感じないのは何故だろう。 写真を観続けていると、彼が施した演出の世界にいつの間にか足を踏み込んでいる。 彼には明確な「自分の世界」ができあがっているから。 彼の世界に踏み込んでいるのであれば、彼の写真は不自然にはならないのは当たり前だろう。 「カメラを向けられて、意識しない方が不自然である」という彼の言葉が妙に印象に残っている。 「カメラを意識しないような自然な表情を求めていた」自分には目からウロコだった。 だから、「演出写真」の他にも彼はカメラを向けられた人たちの自然な表情も撮っている。 彼なりの「リアリズム写真」なのだろう。 彼は好きなものを、自分の感性の赴くままに撮り続けた。 だから彼の写真は、いつの時代のものでも自由でのびのびとしている。 彼は写真と寄り添って生きてきた。
もう一度、写真について考えてみようと思います。
電車に揺られ、過去の偉人たちの足跡をたどりながら。 戻ったら、更新を再開しようと思います。
僕には突出した才能や、人の心を惹きつけるような魅力はない。
パッと見ただけで人を唸らせるような写真は撮れないかもしれない。 でも、被写体に自分ができる限りのことをすることだけは怠けてはいけない。 できる限りのことをするための努力を今はしているんだ。 自分の写真に偽りがないようにするために。 |
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